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優劣、上位下位について

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Copyright © 2019 TAKEHANA TADASHI
著作日時: 2020.06.18.木. 17:13:00 著作者、竹花 忠
優劣、上位下位について:
 上位であるかどうか・優れているかどうか、は、上位であること・優れていること、をアピールするような行動を遂行しきれたかどうかで決まることではない。
 つまり、他者をけなした態度や他者を小ばかにした態度を遂行しきれたことによって、上位であるとか優れているとか決まるわけではない。
 どちらが、知識・スキル、をより高水準に多く備えているか、どちらが、知識・スキル、をより高水準に多く使いこなせるか、によって決まることである。
 であるから、元を質せば、どちらが合法的な学習をどれだけ多くこなし、どれだけ多くの実があげられてきたかによって決まることである。どちらが上位でるか、どちらが優れているか、は。
 ところで自分(=竹花忠)は、基本的に、他者とは比べない。
 自己比において、以前の自分よりも、前進・成長、していることをもってして満足する。
 過去の自分よりも、前進・成長、した自分を得るために、日々、学習に励む。
 学習は、前進・成長、するために不可欠な要素の1つである。
 体調が整ったら、あとは学習である。
 日々、学習することで、日々、前進・成長、した自分に、自分を更新し続けてゆく。
 そして、そのことに満足して、生きてゆく。もちろん、成果に見合った、高額の、収入・利益・対価、を獲得することも目的である。
 日々、学習を重ねてゆくことと、自己比において評価を下すことによって、日々、自己肯定感を得て生きているのが自分(=竹花忠)である。
 学習は、学習によって理解が果たせれば能力が増大するし充足感の伴う取り組みであり、心も知識もスキルも充実させてくれる。
 なので、狙いをつけた分野の入門書から始めて、読み返したりもしつつ、学習を進める。そして、心と知識とスキルを充実させつつ、生きてゆく・生きている。

 文面から理解が果たせないのは、その文面が、駄文・駄作、であるからである。
 決して、自分に欠陥があるためではない。
 定義の知識の開示が、不足・不全、であるせいか、あるいは、従うべき適正な規準の開示が、不正確・不全・不十分・曖昧・多義的、であるせいか。
 それらが原因である。
 定義が正確に必要十分なだけ伝えられきれている文面が提示されているなら、その定義を把握してそれを正確に使用してゆける能力は持ち合わせている。
 時にミスするにしても、リカバリーする能力を持ち合わせているので問題ない。
 従うべき適正な規準が、正確に必要十分なだけ伝えられきれている文面が提示されているなら、その規準を把握して、それを正確に使用してゆける能力は持ち合わせている。
 時にミスするにしても、リカバリーする能力を持ち合わせているので問題ない。
 なお、開示されている定義や規準に不慣れで、十分適正に、定義や規準を使用しきれないのは当然にありがちなことである。
 定義や規準の使用に習熟できるような例示が文面中に述べられているべきである。
 それが欠けていたなら、駄文・駄作、なのであり、著作の手抜かりである。
 駄文・駄作、でないのなら、著作に手抜かりがなかったのなら、楽しく・順調に、学習は進めてゆけることになる。
 楽しく・順調に、学習が進まないのなら、それは一重に、文書が・文面が、駄文・駄作、なのである。著作に手抜かりがあったのである。
 悪いのは・原因は、著作の手抜かりであって、決して、読者である自分には、欠陥はない・問題はない。
 このことをしっかりと、自覚しておくことが・見失わないでいることが、大切である。